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高田山専修寺 一光三尊仏御開扉 [神社仏閣]

木県真岡市(旧二宮町)の高田山専修寺(せんじゅじ)に行きました。


目的は、3日間だけ開扉される秘仏の一光三尊仏の拝観。

真宗の祖、親鸞は42歳頃から約20年間関東各地を行脚して専修念仏を広めました。高田に来たのは53歳の時で、ここに長野の善光寺から一光三尊仏を迎え本尊としたのが専修寺です。


↓ 総門の前の大ケヤキ。樹齢800年親鸞上人お手植えといわれる、県の天然記念物

↓ 総門。通常は閉じられている。

専修寺の境内は国指定史跡になっているが親鸞上人建立当時のものは総門だけ。


 

↓ 山門と奥の建物は本堂である如来堂。 総門、山門、本堂が一直線上にある。


↓ 如来堂’本堂)  親鸞が嘉禄2年に自ら建立したとされている。現在のお堂は1744年再建で屋根は銅板棟に菊の御紋がつけられている。


↓ 御影堂  親鸞上人像を安置。今回はこちらで一光三尊仏が公開された。

↓  御影堂からみた鐘楼堂



この左手の方には5間四方寄棟造りの涅槃堂があり、木造金箔塗り3mの大きな涅槃像がある。

専修寺の東方2㌔にある、草庵跡にも寄ってきました。
↓ 専修寺の建設中に親鸞上人が仮住居としていた三谷(みや)草庵。

林に囲まれてすがすがしい佇まいでした。


尾鑿山賀蘇山神社 [神社仏閣]

長閑な里の風景をながめながらバスが賀蘇山神社に着きました。

尾鑿山賀蘇山神社(おざくさんがそやまじんじゃ)は「日本三大実録」の878年9月16日の條に「授下野国賀蘇山神社従五位下」と記載された社。五穀豊穣、産業発展、医薬長寿の守護神として信仰されてきた。

江戸時代後期になると「尾鑿山講」と呼ばれる代参講が盛んになり、関東一円より多くの参詣者を迎えたそうで、 御祭神は天之御中主神・月読命・武甕槌命です。





神楽殿

境内には大正6年まで目通り周囲15m、樹高70mに及ぶ樹齢1800年と言われた巨大な杉があった、その杉のあったところへ向かいます。




大杉切り株。神代杉。明治44年の落雷と大正6年に発生した近隣火災の類焼により枯損したので伐採、現在は地上約2.5mを残すのみ。枝葉が他の木々の笠のように見え、最下層の枝は直径が1mをこえていたとのことです。 ↓ 



別の場所にある遥拝殿にやってきました。 ↓

この奥、険しい山を上ること3㎞、尾鑿山直下に岩屋があり、そこに祀られている御本社を拝むための建物です(大人の健脚でも90分かかり、また女性の入山が禁止されていた時代もあったそう)。


三間四方の宝形造り、総ケヤキ造りで精巧荘厳な彫刻が四囲にある。60年の工期を要して元禄14年(1701)に完成した。日光東照宮を修築した棟梁、彫工達によって寛永18年頃から着手、中には父子二代に渡り造営に当たった者もいたそうで、彫刻のうち最多は龍で40頭、東西と北面を埋めている。四隅を守るのは獅子と像。


これまで「おざくさん」は「石裂山」と思っていましたが、山の頂上の向こう側を石裂山といい、こちら側は尾鑿山というそうで、入粟野の地名には尾鑿しかないのだと初めてしりました。

 

 


施餓鬼会に参列して [神社仏閣]

宇都宮市今泉町の臨済宗妙心寺派寺院~河北禅林 神護山興禅寺での施餓鬼会に参列しました。



法要は2時から。実家の方で参列する予定ですが、御住職のお話も聴きたいと思い出かけてみました。少し早く着いたので、普段は近くで拝観出来ないから御本尊の直ぐ前にいってお詣りして、位牌が並べ置かれた室内に入って家の位牌にも対面してから静かに待ちました。

興禅寺の御本尊は、木造釈迦如来座像。門前の案内書に~像高は約90㎝、木造寄木造で玉眼。目をやや細め、わずかに首を前に傾けている。南北朝時代の作であるが彫りが深く鋭い等鎌倉彫刻のよさを残している。仏像の底面に北朝の年号「文和二年(1353)」と作者名「院吉、院広、院遵」が刻まれている。~とあります。

1時20分から御住職の法話。施餓鬼会の意味を聞いて、それから、毎日の生活で良いことも悪いことも順番に巡ってくるものであるがあまり良いとか悪いとかこだわらないで、あの世に帰っていく時まで一生懸命に生きましょう。何かあったときはご先祖様が、あるいはおてんとう様が、ののさま~仏様~が見てくれていると思えば自ずから処し方がわかるのではというようなお話だったか。法要は1時間程で終わり、卒塔婆とお寺からのお供物をいただいてこれからお墓にいく兄達と別れ帰って来ました。実家の宗旨は臨済宗なのに最近巡礼会に参加して高野山や多気山等真言宗に浮気しているようでどちらにも申し訳が立たないような気持ちがあったのですが、久しぶりに家のお寺での法要に参列しほっとしました。

興禅寺は、宇都宮8代城主貞綱が宇都宮に初めて禅寺を開いたことから法名を興禅寺殿といいこれを寺名としている。9代公綱は楠木正成との戦い等で坂東武者の名をたかからしめ、その子の氏綱は戦の中で宇都宮氏を守ろうと戦ったが病で亡くなった。豊臣秀吉により宇都宮氏がとりつぶされた時、興禅寺も宇都宮ゆかりということで取り壊され、小さなお堂が一つ残っていただけであったのが、徳川の時代になり奥平氏の助力で復興し、後に江戸浄瑠璃坂の仇討ちの発端となった事件が起きた場所という歴史ももっているお寺です。






 


多気山不動尊 [神社仏閣]

4月に西国札所巡りに参加させてもらった多気山巡礼会の属する真言宗寺院多気山持宝院です。



R293沿い朱塗りの門を入り長い参道を上ります。


山門


狛犬



急な石段が続きます。


本堂


次の日曜日、5月17日大火渡り祭が行われます。


西方の念仏踊り [神社仏閣]

11月23日栃木市西方の 福正寺 にいきました。

目的は、踊り念仏を見ること。

西方の踊り念仏 は 正式名称を 一向上人踊躍念仏-ゆやくねんぶつ-といい、開山した一向俊聖上人の命日に僧侶が鉦をならし念仏を唱える行事。
一向派の僧侶は、加行―中心的な修業の前段階で行われる修業―の時に踊躍念仏の修得が義務づけられていた。このため、民間伝承の踊り念仏が長い年月の間に本来の姿から変化しているのに対し、一向派の踊り念仏は700年来の古い形を残している。
導師のほか7名の僧侶が鉦を打ち鳴らしながら念仏を唱え、初めは静かでゆっくりした動きから、だんだん躍動的になり、最後は再びゆっくり終わりました。
ゆっくりした動きのリズムはちょうど能の動きのようであり、躍動的動きは狂言を見ている時のリズム感を覚えて、解説にあった 踊り念仏は民族芸能の原点で、能、狂言、歌舞伎、日本舞踊、風流踊り等は念仏踊りの影響を受けて発展したとのことになるほどと思いました。
明治20年までは時宗一向派でしたが現在は浄土宗の寺院、ご本尊は阿弥陀如来です。

本堂

向拝のあ、うんの獅子の彫刻が見事です。


東高野山 医王寺 [神社仏閣]

3月22日 栃木県鹿沼市北半田の東高野山弥勒院 医王寺(真言宗豊山派。本尊は薬師如来)で仏像特別見学会があったので出かけてきました。

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金堂 平成20年着工、平成24年11月に落慶。茅葺の屋根が美しい。堂内には薬師如来と両脇侍像(鎌倉時代13世紀、木造、漆箔・金泥塗・截金、玉眼)が安置されている。それに12神将。

唐門と後方の建物は講堂。

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弘法大師堂  堂内には美形の弘法大師坐像(14世紀・鎌倉~南北朝時代)が安置されている。

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唐門

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講堂 内陣中央に聖徳太子自作の伝承を持つ薬師如来坐像(秘仏)が安置される。

西の間には、康応2年(1390)銘の厨子に安置される弥勒菩薩座像(13世紀・金泥に截金細工が施され美しい。)、この寺で最も古いとされる十一面観音菩薩立像(10世紀)や不動明王(12世紀)など多くの尊像が安置されている。

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赤門 と 梅の木の後方は鐘楼

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帰りにゆっくり二王像(13世紀)を見てきた。

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明治35年の台風で損傷をうけその後破損した状態のまま金堂の須弥檀下に保存されていた。昭和58年から平成元年にかけて保存修理が行われた。

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仁王門から境内を見た。

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医王寺は日光開山の勝道上人の開創とも伝えられる古刹。今回開催された仏像特別見学会は、金堂大改修落慶にあわせ発行された「医王寺の仏像」からつながる初の試みということでした。医王寺の仏像の製作年代や美術様式を調査考証してきた武蔵野美術大の萩原哉先生の解説があって、仏像のすぐそばでしっかり拝観することができました。

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(金堂内の薬師如来坐像)↑

「医王寺の仏像ー特色①数多くの尊像が伝えられている。→北関東の一地方寺院に伝わる尊像の数としては異例なほどに多い。②尊像の種類が多様である。ⅰ薬師如来信仰の寺(講堂秘仏薬師如来、金堂本尊薬師如来及び両脇侍像、十二神将)ⅱ未来仏・弥勒を信仰する寺(弥勒菩薩像)ⅲ真言密教の根本道場(弘法大師像、不動明王像)③さまざまな年代の尊像が伝えられている。④保存状態の良好な尊像が多い。


日光への初詣 [神社仏閣]

 平成26年1月3日 日光へ初詣。  神橋でバスをおります。

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大谷川に架かる神橋

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神橋の反対側、道路をはさんで(太郎杉のすぐそば)深沙王堂があります。

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勝道上人が大谷川をどうしても渡ることができないでいる時、深沙王が現れて二匹の大蛇を放すと橋となり川を渡ることができた。そのおかげで上人は原生林を切り開き男体山の頂上に達することができたとの伝説があって、

案内板 ・・・上人一行を助けた「深沙大王」を蛇王権現として祀っている。深沙大王は「毘沙門天」の化身であり、その昔仏教経典を求めてインドに向かう玄奘を危機から救ったといわれる。橋渡しの神という信仰から「縁結び」、また蛇信仰から「商売繁盛」の信仰もある。現社殿は昭和53年の再建。・・・

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勝道上人像の前を通り輪王寺へ。日光山輪王寺は奈良時代末の天平神護2年(766)に勝道上人により開山され、神仏習合の関東の一大霊場として信仰される。金堂(三仏堂)は平成の大修理中。

護摩堂での護摩祈祷まで時間があるのでその間に日光二荒山神社に参拝。

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日光二荒山神社拝殿

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日光山は明治の神仏分離令により輪王寺・東照宮・二荒山神社に分離された。参道を戻ってきて、

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輪王寺護摩殿へ。 御本尊は平安朝の不動明王(五大明王)。

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堂内には七福神も祀られていて福運を求める音が賑やかですが、護摩で焚かれる火をみているうちに心が洗われるような気がして音も気にならなくなってきます。

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加持祈祷をいただいて帰途に。昼食は金谷ホテルで百年ライスカレーをいただきました。

ホテルのすぐそばにある「星の宮 岩裂神社」へ。・・・勝道上人が岩裂神「明星天子」の御加護を得て日光開山を完遂し得たその神恩報謝から大同4年(809)に創建したと伝えられ日光山最古の社・・・と案内板にあります。社殿は昭和55年に改築された。

 

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日光へは毎年参詣していますが、例年に比べ人出が多い印象でした。外国人の姿も多く市街地も賑やかでうれしい年明けとなりました。

 


那須 温泉神社 [神社仏閣]

延喜式内温泉神社は、舒明天皇2年(630)創建され、平成22年に創建1380年、那須温泉も開湯1380年を迎えました。

主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)、配神誉田別命(ほんだわけのみこと)です。 

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温泉神社は古来から温泉守護と身体健全、商売繁盛の神として信仰を集めています。

 

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10月8日温泉街の「分湯場」で源泉を汲み上げ境内の見立神社まで運んでご本殿に備え、温泉湧出の恵みに」感謝するとともに、温泉街の発展を祈る湯汲祭・献湯祭がおこなわれます。

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社務所

 

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社務所前にあるさざれ石

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参道右側に見立神社 ↓

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ここは那須温泉を発見し、那須温泉の祖といわれる狩ノ三郎行広を合祀している。

開湯1370年の時の記念碑 ↓ 見立神社の後にたっている。

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参道に戻る。 御神木「生きる」と名付けられたミズナラ。

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三の鳥居  「奉献 那須与一宗隆 文治弐年(1188)」とあります。

 

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 琴平神社 神明宮 山神社

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三の鳥居を過ぎ拝殿前の石段左手に立っている芭蕉の句碑。 「湯をむすぶ 誓もおなじ 石清水」 この句碑は、徳川氏の奥御右筆をつとめた江戸後期の書史学者、屋代弘賢の書。

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本殿に向かって石段をのぼる

 

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栃木県名木百選 「那須の五葉松」推定樹齢800年

 

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手水舎

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本殿の後方に 稲荷神社があります。「九尾稲荷大明神」 ↓

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稲荷神社の横を通って殺生石の方へと降りて行くことが出来ます。

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手前の赤い点々はお地蔵様

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10月9日の地元新聞

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境内の前にある白鹿の像 白鹿に矢を射かけて追いかけて行った狩ノ行広が鹿が傷を癒しているのを温泉を発見したといわれている。

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その隣の足湯

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8日は那須岳の紅葉を見ようとロープウェーまでいきましたが霧がかかって山は見えないので上らずに帰ってきました。明日あたりは大勢の人が訪れていることでしょうねぇ。

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京都 西山三鈷寺  [神社仏閣]

平成13年1月14日(月)成人の日。宇都宮市でも朝10時頃から雪が降り続いています。細かい雪が横に流されるように 降っていて幹線道路以外は真白になっています。皆さまもお気を付け下さい。

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三鈷寺は、京都市西京区大原野にある西山浄土宗のお寺です。

三鈷寺は善峯寺(西国33札所20番)の奥にあります。もともと善峯寺の開祖源算上人の隠居所であったところがはじまりです。

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昨年12月に京都旅行の時、宇都宮蓮生(頼綱)の墓所があるのでぜひとすすめられ行ってきました。

宇都宮頼綱(実信房蓮生)とは、第5代宇都宮城主で、鎌倉時代初期に関東の武士として生き、謀反のの疑いをかけられると、潔く権力の地位を去り、出家剃髪して「蓮生(れんしょう)」と号し、法然上人や、法然の高弟で西山浄土宗の祖である西山上人證空の下で仏道修行する僧として、また歌人としても生きられた人です。

頼綱が出家したとき一族60余人も出家したそうで、悩める蓮生は、やはり出家していた法力房蓮生(れんせい)(熊谷次郎直実)の勧めによって法然上人をたずね、念仏の教えに帰依しました。

法然上人がなくなられた後は誰に教えを請えばよいかと蓮生は法然上人ご本人に訊ねたそうです。すると法然は弟子は多いけれども正しく真実の義を授けたのは善慧房(西山上人)であるというので蓮生上人は西山上人のところに行き、深く帰依されるここととなったとのことです。 

法然の入滅後、西山上人證空は天台座主であった慈円の譲りを受けて西山善峯寺北尾往生院(三鈷寺)に入りました。

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三鈷寺は応仁の乱により荒廃したということで現在は本堂と西山上人の御廟所(華臺廟)が残るだけです。

蓮生が開基となる華臺廟。 この建物の中に西山上人のお墓である五輪塔とそれにぴったり寄り添うように半分位の大きさの蓮生上人の五輪塔が祀られていました。  (心をこめて合掌)

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また蓮生は若い頃から和歌に親しみ、藤原定家との交流がありました。娘を定家の息子為家に嫁がせていて、文暦2年(1235)定家を小倉山山荘に招き連歌会を開いたとき、定家に天智天皇から家隆・雅経に及ぶ古今の歌人がうたわれた歌の中から一首を選定し山荘の障子に書いてもらいました。これが小倉百人一首の起こりといわれています。

当時、宇都宮は、京都、鎌倉と並ぶ三歌壇としての有力な地位も占めていたそうで、このことから宇都宮市では毎年百人一首のイベント等開催されています。(下は、宇都宮市 英巌寺(開基は頼綱)にある 実信房蓮生法師供養塔です)

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さて、三鈷寺の境内からの眺めはすばらしいものでした。江戸時代の「都名所図絵」には二大仏七城俯瞰の地」とうたわれたそうで、北山から東山、伏見の方までよく見えます。お盆の送り火も同時に見ることができる(4か所のみ)そうです。

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暖められた客殿でお茶をいただきました。

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栃木県から来たというのでご住職さんから湯西川を知っているかきかれ、湯西川といえば平家の落人村との話が出るのですが、実は頼綱さんと湯西川は縁があるのだときいて驚きました。頼綱の母は平長盛の娘で宮廷に仕えた女房、頼綱の祖父である朝綱が後白河院の北面の武士として仕えていた際に、息子である業綱の室としたということです。そのような縁があったことから平家の落人が頼綱を頼ってきたが鎌倉の御家人である頼綱は宇都宮にとどめておくことは出来ないので援助して湯西川に落ちのびさせたのだそうです。湯西川の老舗旅館にホテル伴久とあるのですが、伴を分解すると平人です。

(湯西川は近年新しいダム湖が出来てトンネルをいくつもいくつも越えないといけません。aatyanさんやはなちゃん104Mさんが詳しいです。)

下は三鈷寺境内の片隅。南天がきれいだったので。

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善峯寺境内から上がってくるとここに出ます。

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もともと御堂のあった処は現在の場所よりもっと山の上の方。「勅浄土西山派根本山」との碑が建立されています。

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三鈷寺へは善峯寺をこえなければいけません。

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善峯寺への道の途中に入口の案内がありますが登山道のようであるそうですから善峯寺境内をこえて行くのが一番良いようです。徒歩20分位。

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三鈷寺でお聞きした話を思い出しながら書きましたが、本堂前に置かれた案内文をのせておきます。

三鈷寺    西山宗の総本山であり、四宗(天台、真言、律、浄土)兼学である。平安中期の、承保元年(1074)、叡山の源算上人が草案を建て、往生院と号したのが当寺の起こりである。二祖観性法橋を経て、三祖慈鎮(慈円)から西山上人証空(善慧房)に譲られた。証空は念仏の道場として発展させ、浄土宗西山派をこの山に創始し、背後の山の頂上髢嶽(かもしがたけ)の三峰が仏具の三鈷ににているところから寺名を三鈷寺と改め、勅願寺に列せられた。

 証空は宝治元年(1247)入滅。華台廟はその墓所で、証空に深く帰依した蓮生(宇都宮頼綱)が多宝塔を建てた。 蓮生には「抱止阿弥陀如来」の縁起も伝えられている。

中世を通じて念仏の道場として証空の法流を伝え、多くの寺領荘園を持ち寺運は栄えたが、応仁の乱の兵火により多宝塔以下山内は荒廃した。江戸時代には復興の努力がなされたが、旧観には復さなかった。

  52代台龍上人が現在の寺観を整備し、昭和26年(1951)西山派として独立した。建物としては華台廟、本堂を残すのみであるが、古い由緒を物語る寺宝は多い。また、客殿からの眺めはすこぶる良く、京都の市街地まで見渡せ、中でも東山に上る明月の眺めは関西随一と称される。  京都市」


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柴又の帝釈天 [神社仏閣]

1月3日柴又の帝釈天題経寺にいきました。日蓮宗のお寺です。

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二天門

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境内全景

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手水舎の前で順番待ち。この松は「瑞竜の松」という。

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手水鉢。     この横に水掛け菩薩像もありました。

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帝釈堂

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本堂  こちらから上って参拝。

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参道の商店街も大勢の人。駅前まで寅さんに会いにいってみました。

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「よっ」と言いながら振り返っているような温さがあります。

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参道は一方通行に規制されて団子もおせんべいも買わずに帰ってきたのが少し心残りではありました。

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浄瑠璃坂仇討の準備の地・法幢寺(茂木町) [神社仏閣]

宇都宮市今泉3丁目に興禅寺というお寺があります。臨済宗妙心寺派の寺院です。開基は宇都宮貞綱(宇都宮第8代城主)です。

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山門

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案内に「江戸期三代仇討浄瑠璃坂の仇討家老奥平内蔵允正輝」とあります。赤穂浪士討入の手本といわれる江戸・浄瑠璃坂での仇討の発端がここにありました。

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1668年(寛文8年)興禅寺で営まれた前藩主の法要の際に、同藩家老奥平内蔵介と奥平隼人が口論から刃傷に及び深手を負った内蔵介が二ヶ月後に憤死、一方の隼人については当初切腹を命じることなく両成敗を欠いた裁定だった。内蔵助の子源八(当時11歳)は浪人し、父の仇として奥平隼人を討つべく同じく脱藩した42名と共に茂木町深沢に隠れすみ、奥平隼人の動向を探り続けること4ヵ年、1672年(寛文12年)に江戸牛込の浄瑠璃坂下で隼人を討ち父の無念を晴らすことができた。

先日、茂木の里山ウォーキングに参加した帰り、源八らが隠れ住んだ茂木町深沢を訪ねてみました。道の駅もてぎから笠間方面へ向かいおよそ10㎞、深沢の交差点からは約3㎞ほどのところ右側に案内標識がたっています。

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ここを左に入って200m位でT字路左折するとすぐです。

法幢寺 山門と石段

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本堂 御本尊は千手観音。御本尊前には源八所縁の子孫の方の依頼によるとお位牌がありました。

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境内に、仇討のいきさつとともに内蔵介300回忌にあたり深沢の人々の人情に感謝して建立した(昭和54年)旨の「武士の情と歴史」の碑文があります。062.JPG

境内から眺めたところ。お寺は高台にあってまわりは長閑な田園地帯です。源八一族40余名は法幢寺や村名主の有力農家数軒に分散して住んでいたようで仇の情報を探るため各地と行き来する人の姿が目立たないわけはなく、4年間を過ごすことができたのは深沢村や法幢寺附近の人々の親切があったからと想像できます。

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法幢寺が仇討準備の地とされたのは旧参道の竹藪の中からある石碑が発見されたからです。現在の参道石段より100m位入ったところにその石碑がありました。

参道わきの案内

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石碑です。

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自然石の表面を平らに削った高さ1m位で、中央に「大小旦那奉加喜捨等之交母石階人數」とあり、その左右上部に貞享四丁卯、卯月吉辰、右側に「奥平権平、同源八、夏目外記」、その下部に「大谷石工、大野源左ヱ門、加藤次右ヱ門、篠原七ヱ門」とあります。左側には「名主上野半右ヱ門、桜井三太夫、飯村権之助」と「住持翠岩」と記されています。

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このときの源八は30歳、夏目外記、権平は40歳。

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本懐を遂げた後、中心人物だった源八ら3名は大島に流罪となるが、6年後許されて戻ると彦根藩井伊掃部頭に召抱えられ、幸福な生活を送る身となった。15年後に源八らは彦根から深沢を訪ねて村人に謝礼をするとともに村の寺である法幢寺に参道の石段を寄進し、その記念にこの石碑を建立したもの。

なお、仇討に参加した同志は活躍した人も若党、仲間で助勢した人もそれぞれ各藩に召し抱えられたとのことです。赤穂浪士の討入は、浄瑠璃坂の仇討の30数年後のことです。

金剛山法幢寺の入口

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法幢寺本堂に勢至観音菩薩がまつられていました。観音様は鰻にのってやってきたのでこの辺りでは鰻は食べないそうです。


鷲子山上神社 [神社仏閣]

栃木県と茨城県の県境にまたがって鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)があります。日本一の大フクロウの像がありパワースポットとして人気だそうです。

ナニコレ珍百景にも取り上げられそうな。上り口となっているのは茨城県側でバス1台が通れる巾の道です。出口は栃木県側で乗用車1台が通れるだけの巾。

境内に入ると鳥居前に、ここが県境とありました。

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鳥居をくぐって手水舎へ

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本殿までの石段は96段。上がるのが無理な人は手水舎の横のフクロウに水を掛け祈ってもよし。

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フクロウの石段を上って本殿へと。96段×2で(フクロウ)。

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狛犬

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随神門

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本殿

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茨城県指定

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栃木県指定   

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石段の上から境内をみたところ

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社務所にはここならではのお守りがあります。

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社務所を挟んで反対側。この石段(30段くらい)を上ると日本一の大フクロウの像がたっています。

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金色に輝いている大フクロウ

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日本の自然100選にも選ばれているところです。

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分福茶釜 茂林寺  (群馬県館林市) [神社仏閣]

群馬県館林市にある 分福茶釜のお話で有名な 青竜山茂林寺 は曹洞宗のお寺です。御本尊は釈迦牟尼仏。

門前に、福陶庵という御土産やさんがあって、大小たくさんの狸の置物が並んでいました。帰りによることとして、

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黒門をくぐると

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茶釜とたぬきの像がずらっとならんでいます。

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本堂です。

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寺宝の分福茶釜。「応永23年に開山の大林正通禅師に随い伊香保から来て代々の住職につかえた守鶴和尚は、7世月舟和尚の代に千人法会があり喫茶の用に供する湯釜がなくて寺で困っていたとき、一夜のうちにどこからか一つの茶釜を持ってきて、茶を煎じたところ昼夜汲めどもつきることがなかった。和尚は自らこの茶釜を紫金銅分福茶釜と称して、その後161年間当山にいたが天正15年2月28日飄然と寺を去って行方がわからなくなった。後世守鶴和尚は狸の化身だと伝えるものがあり、お伽噺となったものでしょう」~拝観券より。

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天然記念物のラカンマキ 

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元禄3年建立の聖観音とサワラの大木

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門前の御土産さんの 福陶庵で、分福茶釜の由来と「たぬき説法・茂林寺狸八訓」というおもしろいチラシをもらいました。館林うどんのおいしいお店も教えてもらって食べてきました。  2012.02.05(日)


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古峯原金剛山瑞峯寺 (栃木県鹿沼市) [神社仏閣]

古峯神社への途中にあった金剛山瑞峯寺は、真言宗の寺です。御本尊は金剛童子(秘仏)です。

1300年ほど前、勝道上人により、当山奥の院三味石が開創されたとあります。勝道上人は佐野の出流山からこの地に来たときに、峯に古色蒼然とした原野があるので、古峯原と名付けたともいわれ、ここで修業に励み、そののち男体山への登頂に成功、日光開山の祖となりました。

修験道の霊場として北関東36不動尊第17番札所に指定されています。

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金剛不動尊は地上からの高さ13m。

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本堂へは、急な階段を上っていきます。

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お寺なのに鳥居があります。修験道が行われてきたあかしです。

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知らずに行ったところ前日葬儀があったとのことで片づけの最中でした。ので邪魔でない範囲で撮影

本堂の前には大きな仁王像や天狗の像が建っていました。

この前でお寺の人に尋ねてわかったのですが、古峯神社とは昔は一緒だったこと。明治の神仏分離で神社とこの寺とがわかれて、この右手ずっと向こうに聖地である奥の院があるのだと知りました。

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階段の途中から右手の方にいくと滝行場があったり、仏像が置かれたりしています。5月の最終日曜日には「金剛山火渡り修業」という山伏の行事がおこなわれるようです。

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水・滝行場  小さい場所です。

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階段の上がり口にあった古峯ヶ原開山・勝道上人の像です。 

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御朱印

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古峯神社は知っていましたが、瑞峯寺の方は今回はじめてしりました。独特な雰囲気がありました。


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古峯神社 (栃木県鹿沼市) [神社仏閣]

古峯神社は、栃木県の西部の鹿沼市草久古峰ヶ原(こぶがはら)に鎮座します。こぶがはら神社ともよんでいますが、正式名は古峯神社(ふるみねじんじゃ)といいます。

御祭神は、日本武尊

火防の神、海の安全、五穀豊穣の神として、農村、漁村の人々の熱烈な信仰を集めています。講が組織され、境内には各地からのたくさんの講中の参拝記念碑が建立されています。

大芦川にそって古峰ヶ原街道を進んでいくと、大きな鳥居が見えてきます。ここからが神社の神域となります。

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ここから神社本殿まで約6㎞あります。

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途中に金剛不動尊がいらっしゃいました。

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この寺は帰りによることにし、とりあえず神社をめざします。

一の鳥居の前の駐車場でおります。

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一の鳥居前の狛犬

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二番目の鳥居。この辺りから各地からの講中が奉納した碑がたくさん並んでいます。

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水舎

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頭を低くした狛犬

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天狗の像、これも講中が奉納したもの。写真はないですが、江戸町木遣りの奉納した碑などもありました。

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この奥は古峯原庭園、茶室や茶店があり、時々茶会が開かれたりします。

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この階段を上がったら本殿です。

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拝殿に置かれた烏天狗。天狗は御祭神のお使いとされています。(なお、拝殿の中なのでここからは撮影の許可をいただきました)。

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廊下の奥に、大きな釜があり、中には赤々と炭火が熾きていました。

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「(古峯神社不滅の御神火) 古峯神社では創起以来御神火(聖なる火)を絶やしたことがありません  この爐にかかる大湯釜は直径70センチメートル容積80リットルが入り1回でおよそ500名分の湯茶を賄うことができます。この爐によりわき立つ霊気(湯気)に当たれば無病息災で過ごすことができるといわれております」との説明板がありました。

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天狗の間の大天狗。素材は欅で、一刀彫。江戸時代の作といわれ、昭和57年に化粧直しをしたとあります。顔の長さは1.76m、顔の幅は1.06m、鼻の高さは91㎝、鼻の太さは1.49m

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こちらは烏天狗。顔の長さは1.58mと大天狗より少し小さめながら、鼻の高さ91㎝は同じです。

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 廊下にはたくさんの奉納額がかかっていますが、下のは昭和17年9月奉納の天狗。

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屋根の上にも天狗

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社殿の外観

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御朱印です。

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清らかな水が流れる大芦川を見ながら帰路につきました。

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白い石がごろごろしています。きれいな川です。

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途中で、鹿沼名物のニラそばをいただいてきました。玄そばの上にゆでたニラがのって、ニラの匂いがする。そばと一緒に食べたニラのシャキシャキ感がよくおいしかった。にらが嫌いでなければニラそばはお薦めです。

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沢観音寺  初甲子大黒天祭  [神社仏閣]

暦をみると、3月10日の干支は甲子(きのえね)。節分を過ぎて最初の甲子の日に、沢(栃木県矢板市)の観音寺では、初甲子大黒天護摩祈願大祭が開催されます。

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今から十数年前、仕事で近くにいった時、他にあてもないので昼休みの時間を過ごそうと同僚と一緒にお寺の境内に入っていったのが、沢観音寺にいった最初です。

知らずに山門をくぐって、境内を見回している私達に、本堂に上っている人が声をかけてきました。私達も上にあがれと誘ってくれました。食事をしている様子なので遠慮するとこれも縁だからと皆さんが口ぐちに誘ってくれるので、それならお茶だけでもと上がらせてもらいました。結局、遠慮しながら御馳走を一緒にいただきました。

矢板市に住む友人が甲子の日にお祭りがあるからと誘ってくれたのは、その後のことで、あの日がそうだったのかと思います。それで、ここ数年、休みが取れるときは、初甲子大黒天護摩祈願大祭に参詣しています。

どのような祭かといいますと、本堂から渡り廊下でつながっているこの千手千眼堂の中で行われます。

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この御堂の中には、中央に御本尊の千手千眼観音菩薩、その右側に黒色の大黒天、左の方には不動明王、その他の仏像が安置されています。

御本尊は高さ50~60㎝位、淡い紅色がかってみえるきれいな優しい感じの仏様です。

大黒天のお祭りは、初めに黒色の棒を持って7人の鬼(鬼の面をつけてる)が入ってきて、床をその棒でドンドンとたたき、出ていきます。次は、それぞれお供え物をもって七福神の面をつけた7人が入ってきます。副住職の先導で、七福神から先に、そのあと参詣者が一人づつ、大きな数珠の輪をくぐり、大黒天の前にある金色の小槌を持って、大黒天のもっている槌をトントンと二回たたきます。御本尊の前を通って念じ数珠を各自一つずついただきます。

この後、護摩祈願。緋色の衣の老住職が檀上に座し、太鼓が打たれ、ホラ貝が吹かれてはじまります。途中で副住職の合図で参詣者全員が御真言を108回、また、南無甲子大黒天も21回唱えます。般若心経の読経の中で護摩祈願が行われました。最後にホラ貝が吹かれて終了。

この後は、本堂に移って、みんなで御馳走をいただきます。一人ずつに御赤飯とお料理の折りとお酒が配られた他に、お母さんたちが手作りのお煮しめ、胡麻和え等、熱いうちに食べて下さいといいながら出してくれます。

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地元の踊りの社中が踊りを披露してくれます。食事をいただきながらみています。

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10年以上も前のありようと少しも変わらない、素朴で温かい人々の集まりでした。お土産を手に帰ります。

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沢観音寺は、天長2年、約1200年前に建立された寺で、800年前~600年前まで澤村城(那須与一の兄を祖とする)の址に移築された寺で、山の後ろには箒川の清流が望めるそうです。

このお堂、建築に当たったのは、宮大工の小川三夫さんです(小川さんは矢板市の生まれ、鵤工舎を創設)。 この右手の方から裏山へと続きます。

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宇都宮方面から4号線バイパスを行く場合、これが目印。

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沢の駐在所を過ぎて間もなく、金色の観音様が目に入る。手前は蓮池。

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観音寺の庭園は、これから花の季節です。

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宇都宮入道蓮生 と 百人一首 [神社仏閣]

宇都宮・清巌寺に 宇都宮第5代城主 宇都宮頼綱(1178~1259)の墓(供養塔)があります。。

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頼綱は、鎌倉幕府の御家人として重要な位置にいましたが、元久2年(1205)謀反の疑いをかけられたことから出家し、蓮生法師と名のりました。和歌を好んだ蓮生は京都嵯峨野の小倉山の麓に山荘をたて、藤原定家の息子為家に娘を嫁がせるなど交流を深め、蓮生が定家に山荘の襖に張る和歌をしたためた色紙を依頼した、これが、小倉百人一首のもととなったといわれています。  (定家の日記 「明月記」 に関連の記載あり)

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黒羽・雲厳寺 [神社仏閣]

8月22日(日)晴れ  栃木県大田原市にある禅宗寺院 黒羽の雲厳寺に行きました。

雲厳寺は1126年開基。1283年時の執権北条時宗を大檀越とす。1578年臨済宗妙心寺派となる。  昭和22年開山仏国国師開創の古道場再興と宗門興隆のため、専門道場を開く。昭和52年座禅堂獅子窟を建立した。

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山門

天正18年(1590)豊臣秀吉は小田原攻めの軍に当地の那須氏が従わなかったため、烏山城を攻めようとしていたが、遠近の者が難をのがれるため、当山を頼った。秀吉はこのことを聞き、当山が要塞としての侮りがたい形勝にあるとしてこれを焼却した。 この兵火の中で唯一残った建築です。

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仏殿。  天正兵火後の仮建築で築300年を経過しており不朽甚だしく修理の途もないため、大正元年建て替えを決定し、大正11年竣工した。この時、実に鎌倉末期の手法を以て建築したものです。

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本尊・釈迦牟尼佛。仏殿の中は、奥の方にこの仏様が一体静かにおわします。

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仏殿とその後ろは方丈、右の方の屋根は庫裡。

山門、仏殿、方丈が一直線上にあります。

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鐘楼と山門です。

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 下は、鐘楼の前から撮った山門。

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勅使門

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雲厳寺由緒。

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天然記念物の杉。樹齢550年。

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武茂川の清流。暑さを忘れます。

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雲厳寺は観光案内はしていません。

市営バスは一日に数本、2時間に1本くらいの割で運行されているようです。

車の場合、駐車場はバスの終点と一緒で、門の前の広場です。


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